5月18日、おんなの底力。(生後145日)

 さびしいのは、そうすけだけではなかった。母からメールがとどいた。
「無事、家に着きました。そうすけの顔を見ていると、帰りづらくなるね。毎日ずっと、見ていたいな。ほんとうに、たのしかったよ。いろいろ、ありがとう。そうすけは、ちゃんと育っているよ。がんばりすぎずに、すなおに、すなおに、育てていけばいいよ。また会いに行くからね。からだに気をつけて」

 母は、5月15日に誕生日を迎えて80歳になった。家事をしているときにふと気づいたら腕にあざがふえていたり、気をつけていても口内炎ができていたり、健康まわりの細かなトラブルはひっきりなしだという。年をとるとはそういうことよね、と自らも体力の低下を認めている。そんな母が、そうすけが誕生してからというもの、ぐんと若々しくなった。どんどん、きれいになっていく。まるで恋をしているようだ。そうすけのことを話しているときの母は、少女の目をしている。そしてとうとう、京都から新幹線にのって、はるばる会いにきたのだ。どうやって行くのかもわかったし、これからは日帰りでもだいじょうぶだよ、と母は胸を張る。こんどは日帰りするつもりですか。このパワーはどこからくるのだろう。これが、女性の底力というものなんだろうか。

 先日、子犬を育てている友人と話しているときに、おたがいに感じたことがある。人は、とくに女性は、愛情をあたえる相手をいつも探している。その相手は赤ちゃんだったり、犬だったり、ネコだったり、セキセイインコだったり。愛情をあたえる相手がたまたまちがうだけで、母性そのものにはかわりがない。よわくて小さくて、いっしょにいると気が抜けないし、遠くへ外出もできないし、突然ごきげんななめになってこまらせることもあるし、そうかと思えば、にこにこ天使の笑顔で見ているこちらまでハッピーになっちゃうことだってある。そんな体験のひとつひとつを思いだしたり、だれかに話していたりするだけで、しあわせに満たされるのだ。それも、ただのしあわせではない。あたまからつま先までどっぷり、しあわせという名前のお風呂につかっている感覚だ。